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昭和48年宮崎県都城市生まれ。熊本大学を卒業後、平成8年に外務省に入省。シリア、チュニジア、ヨルダン、イラクに勤務。日本の対中東外交を最前線で支えた。
平成14年6月からは在ヨルダン大使館勤務となり、イラク関連の情報収集・分析に当たるため、国際社会がイラクに対して大量破壊兵器の査察を要求する中で、イラクとヨルダンを頻繁に往復した。そして、戦闘が終了する前の平成15年4月26日、奥克彦氏に続いて再びイラク入り。厳しい状況の中での職務であったが、多くのイラク人との友情を大切にし、同じ目線から困難に直面するイラクの実情を真摯に受けとめ、外交官としての自覚と責任の下、イラク復興にかける強い使命感を持ち続けた。
同年11月29日、凶弾に倒れる。アラブに対する高い見識と人格を兼ね備え、アラビスト外交官としての道を着実に歩みはじめた矢先の出来事であった。
人が好きで、ふるさと都城が好きで、そして、何よりも家族を愛していた。九州男児らしく芯は強いが朗らかで温かい性格の氏の周囲には人がたえることがなかった。
外交官となり、中東地域へ勤務するようになってからも、笑顔を忘れることなく、熱い思いを胸に、アラブのために何が出来るのかということを常に考えていた。氏の誠実な姿勢はアラブの人たちからも高い信頼を得ていた。
また、人種や言語を超えた付き合いのできる氏の振る舞いには、未来を担う子どもたちへの深い愛情に溢れていた。シリアで共に研修を受けた同期は「バス停で並んでいる私たちに物を売りに来る子どもにも対等に話しかけていた。悪戯をする子には、全く見知らぬ子でも必要があれば叱ってあげ、分け隔てなく、どの子どもにも接していた。ホームステイ先の子どもたちからも「マサ、マサ」と本当の兄のように慕われていた。マサと一緒にいると、気がつけば何故か子どもたちが周りに集まっていた。」と語っている。
小学5年生の時に、アフリカの飢餓を伝えるテレビ報道に強い衝撃を受けた氏は、当時の作文の中でこう書いている。「ぼくたち日本人は、あまりにもぜいたくすぎるのではないでしょうか。このような苦しみの中にある人々に、少しでもできることをしていかなくてはいけない。」
この豊かな社会の中に恵まれない人たちがいることに心を痛めた氏は、その頃から抱いていた高い志をずっと忘れることはなかった。
| 1973 | 5/11 | 昭和48年5月11日生まれ |
| 1980 | 都城市立上長飯小学校入学 少林寺流空手道錬心舘に入門 | |
| 1984 | 小学5年生の時、アフリカ飢餓報道番組に強い衝撃を受け書いた作文に外交官を志す一端を示す | |
| 1986 | 都城市立妻ヶ丘中学校入学 中学1年生の時、少林寺流全国空手道選手権大会(広島大会)中学生型の部優勝 中学2年生の時、同準優勝 | |
| 1989 | 宮崎県立都城泉ヶ丘高校入学 学業の傍らアマチュア無線を通じて英語圏の人達と交流 | |
| 1992 | 熊本大学法学部入学 国際法ゼミに所属 卒業論文のテーマは「日本の政府開発援助(ODA)のあり方」 | |
| 1996 | 熊本大学を卒業後、外務省に入省 中近東アフリカ局中近東第一課に配属され、パレスチナ問題をめぐり対立するアラブ諸国及びイスラエルの双方から若手外交官を同時に招聘するプログラムの企画等を行う | |
| 1997 | シリアでの研修を通じて、アラビア語やアラブ世界に関する豊富な専門知識を習得 | |
| 2000 | 在チュニジア大使館勤務となり、政府要人の通訳を何度も務めたほか、学校施設や医療機器等の草の根・無償協力プロジェクトにおいては、地域住民の実情にあわせた支援の実施に尽力 | |
| 2003 | 3 | 戦争を回避するために行われた茂木外務副大臣とアジーズ・イラク副首相の会談において、通訳として最後まで日本側の主張をイラク側に伝える |
| 2003 | 日本政府による復興人道支援局(ORHA)を通じたイラク支援の発表を受け、奥克彦氏とORHAの活動に献身的な協力を行うとともに、ORHA及びその後のCPAと日本との連絡調整に努める |














