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正盛、君を忘れない
外務省中東二課 河原一貴
信じられない。正盛、君がこの世にいないなんて。君の笑顔をもう見ることができないなんて、君の軽快な冗談をもう聞くことができないなんて。何が起こったのか、どうして君がこんな目に遭わなければならなかったのか、本当に無念でならない。
10月に久しぶりに東京で再会した際、君は日焼けした顔で、イラクのこと、日本の復興支援のことを生き生きと話してくれた。バクダッドに正盛がいれば大丈夫、イラクの人々に日本の顔がしっかり見えている、そう思った。得意のアラビア語を駆使し、人の輪のなかに自然に入り込み、イラクの人々の心をしっかりと掴んでいると感じた。君はアラビア語を専門とする外交官として、日本とアラブ世界のかけ橋たる人物であった。信念を持ち、アラビスト外交官としての道をしっかりと歩み始めていた。
僕と君が外務省に入ったのは1996年の春。同じアラビア語専門の同期だった。最初に僕らは中近東第一課に配属され、お互いに外務省で最初の同僚となった。君とともに手掛けた仕事でいまでも忘れられないのは、中東地域の若手外交官招聘プログラムだ。これは僕らと同じ年代の若手外交官や行政官を、エジプト、シリア、レバノン、パレスチナ自治区といったアラブ地域から招聘するとともに、パレスチナ側と長年紛争関係にあるイスラエルからも招聘し両者の間の対話を促進しようとするもの。当初僕らはどのような分野の人を呼ぶか考えあぐねていたなかで、君は僕らと同年代の若手外交官をアラブ・イスラエル双方から呼んで、腹を割って話し合おうと提案した。面白い企画で、結果は大成功。同年代のアラブ、イスラエルの若者が日本で本音で語り合った。
その後、1997年夏から、僕らはシリアの首都ダマスカスでアラビア語の研修を受けた。お互い同じ教授の授業に出席したけれど、上達は断然君の方が早かった。僕が教授の厳しい質問にしどろもどろになっているのに、君はすらすらと何の躊躇も見せず答えていた。僕は毎晩辞書を引き引き勉強したけれど、君は現地の人々との交流から自然に生のアラビア語を身につけていったのだろう。言葉の上達のために、また、現地の文化・生活習慣を知るためには、そこに住む人々と生活をともにするのが一番と、お互いシリア人の家庭にホームステイした。君のもとにはいつもたくさんのシリア人の友だちが訪ねてきて人の輪が絶えなかった。日本人でも、シリア人でも、相手が誰であっても人の心をなごませる、そんな魅力を君は持っていた。魅力というよりは魔法かもしれない。君の笑顔を見ると、自然と笑顔で返してしまう。そんな光景を見て、君は将来外交官として必ず大成する、日本とアラブのかけ橋になる、僕はそう思った。
正盛、君のことをいつまでも忘れない。君がいつかふっと僕の前に現れそうな、そんな気がしている。「よっ、河原元気かっ」と、いつもの笑顔を見せてくれそうな。そんな気がしている。
【外交フォーラム Feb.2004 No.187】