続イラク便り



『イラクのサッカー事情』2005年9月

日本とイラクの関係で言えば、多くの日本のスポーツファンが思い出すのが、「ドーハの悲劇」。カタールのドーハで開催されたアメリカ・ワールドカップ・アジア最終予選の最後の試合で、日本は試合の最終盤まで2対1でイラクをリードしていながら、ロスタイムにイラクにゴールを決められ、日本のワールドカップ出場の夢は断たれました。日本のサッカー史上忘れられない試合です。

 

イラク戦争後、イラクのサッカー界もいろいろな苦労を重ねています。日本政府は、イラクのサッカーに協力するため、日本サッカー協会とも協力して、サッカーボールの供与などを行いました。2004年2月には、日本がイラク・チームを招き、国立競技場で親善試合を行いました。試合は日本が2対0で勝ちましたが、内容はイラクが押していたといってもおかしくない試合で、戦争の中で練習もままならないイラクの選手がはつらつとプレーしていました。イラクの選手が、日本の整備された芝のグラウンドを見て、こんなにきれいなグラウンドで練習できることが喜びだと、練習時間が終わってもサッカーの練習をもっとしたがっていたというエピソードが私には印象的です。

 

サッカーはイラクでも最も盛んなスポーツです。イラク戦争の勃発後、イラク・サッカーはいろいろな面で大きな影響を受けました。イラク最大のスタジアムは約半年の間米軍に接収され、試合のための移動もままなりませんでした。2003〜2004年シーズンは、治安状況の悪化や施設の不備、主要チームがアジアチャンピオンズリーグやアラブチャンピオンシップへの参加を優先したことなどから、結局中止になってしまいました。

 

2004年〜2005年シーズンは、2004年10月に開幕し、2005年の7月下旬に閉幕しました。全国の36チームを地域ごとに4地区に分け、一次予選を勝ち抜いた12チームが4グループに分かれエリート・リーグを戦い、各グループの上位1チームが決勝トーナメントに進出しました。最終的には、Al Quaah Jawiah(空軍)チームとMinah(港湾)チームが決勝を戦い、al Jawiahがal Minahを2対0で快勝して優勝を決めました。3位はTalabash(学生)チームでした。(これらのチームは、イラクの人気チームです。かっては、「空軍」チームでは空軍に所属していた人、「学生」チームでは大学生がそれぞれのチームの中心でしたが、今はそれ以外の選手もたくさんいます。「港湾」チームは、南部の都市バスラのチームです。このほかの人気チームには、バグダッドのZawrahやShurtah(警察)、中南部の都市ナジャフのNajafが上げられます。)

リーグ戦、トーナメントの形式は複雑で、毎年のように変更が加えられているようですが、一部は36チーム、二部には24チーム、三部には26チームが属しています。

 

戦争前は、例えばバグダッドの主要スタジアムであるAl Shaa’abスタジアムで人気のある試合だと2万人、3万人といった観客を集めたそうですが、現在の観客数は2000人程度、多くても1万人に届くことはほとんどないようです。やはり、治安の悪化が観客数は減らしています。チケットの価格は一番良い席でも200円強、安いところは70円くらいで見られます。
試合は、テレビでも中継されています。戦前は、ナイトゲームも数多く行われていましたが、戦後は電力事情と治安情勢のため、ナイトゲームは行われていません。季節にもよりますが、午後3時か、4時くらいから始まることが多いようです。

 

バグダッドには、Al Shaa’abとAl Kashafeaという2つの主要スタジアムがあるほか、25の試合用のサッカーグラウンドがあります。各県レベルにも、スタジアムがおかれています。日本の自衛隊が活動しているムサンナ県サマーワでは、日本のODAと自衛隊の協力によりサマーワ・スタジアムが復旧されました。
イラクのプレーヤーの平均給料は、70ドルから200ドルということですから、サッカーだけでは食べていけません。他にも職を持たないといけないですし、多くの選手が、アラブ首長国連邦、カタール、レバノンなどの外国リーグでプレーしています。韓国とギリシャのリーグでプレーしているイラク人選手もいるそうです。

 

フセイン政権下では、イラク・サッカー協会はフセイン大統領の息子ウダイ氏が会長でした。彼は、オリンピック協会の会長も兼ねるなど、イラクのスポーツ全般を取り仕切る立場にありましたが、特にサッカーに強い関心を有していました。彼は、自分の別荘でサッカーの試合に負けた選手を拷問にかけたり、投獄したりしてひどい目にあわせていました。こうしたウダイの行状については、当時の様子を生々しく描いた本も出ていますが、イラクのサッカー選手は文字通り命がけで戦っていたわけです。

 

厳しい環境の中でも、イラク・サッカーは国際試合でかなりの成績を収めています。アテネ・オリンピックでベスト4に入賞したのは記憶に新しいところです。この時は、イラクが勝つたびにイラク中で喜びのあまり、人々は空に銃を撃ち放していました。ドイツ・ワールドカップ予選では1次予選でわずかにウズベキスタンの後塵を拝しましたが、オリンピック予選でもワールドカップ予選でも、イラクの治安が悪いため、イラク・チームは「ホーム」で戦うことができないというハンディキャップを負いながらの戦いだったのです。
既に、8月下旬から新しいサッカーシーズンが始まっています。多くのイラク人にとって、サッカーは一つの希望です。イラクの人が安心してサッカーを楽しめる環境が早く戻ってきてもらいたいものです。
(今回の記事では、イラク・サッカー協会から提供された資料を利用しました。)




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